武術と“切れ味”
光圓流には、さまざまな流派の経験者が訪れます。
その中には武術歴二十年三十年という方もめずらしくはありません。
他流の高段者や壮年の方々がよく質問される内容に「最近、動きにキレがなくなってきたが、どうしたらよいでしょうか」というものがあります。
動きに切れがなくなる原因としては、筋力や柔軟性の衰えによるバランスの悪化や、関節の稼動域が狭まっていることなどが考えられます。これらは個別に具体的な指導をしていくことで、改善が可能です。
しかし、そもそも武術に“切れ”は必要なのでしょうか?
ときには、そういう視点を持ってみることが、上達への大きな手がかりになるかもしれません。
切れがなくなったと嘆いている経験者に、師範はよく問いかけます。
「その他に、どういった変化がありますか? 切れがなくなった代わりに、重みや粘りが出てきていませんか」と。
この重みや粘りこそが“キレ”以上に武術の本質である“技の効き”にも直結してくるからです。
見た目の切れ味を重視するなら、減量して手足を細く軽くしてしまうのが、いちばん手っとり早いのです。
当流でも、型や演舞を行うときは、体を絞り込んで切れを出すことを推奨しています。
特に肘から先、膝から下といった末端を軽量化することで、スナップの利いた動きが可能となり、見栄えがよくなります。
けれども、武術というのは本来、見栄えなどに囚われる余裕がないほど、実理的で厳しい分野でもあります。
魅せることを意識していたり、神秘的な演出にとらわれていたら、悪癖が身についてしまい、現実戦ではまるで使いものにならなくなってしまう。
そのあたりは本分として、忘れてはならない要所でもありますね。
虚飾は武術において、害悪にしかなり得ません。
また、いわゆる“寸止め形式”のポイント制の試合なども、最高の素速さと機動力が求められるので、自重をある程度まで減らしておく方が有利に働く場面が多いです。
(光圓流では緑帯までは、なるべくポイント制の試合を経験するように進めています。それが遠間からの攻防や、高度な間合いの感覚を身につける、最短の道筋だと認識しているからでもあります)
しかし、自重を軽くすることには、当然ながら弊害もあるのです。
まず、重心の位置が変わるので、そのままではすべての動きが軽くなります。
体重が減ることで負荷も低くなるため、普段の稽古における鍛錬の度合いも小さくなります。
結果として地力が養いにくくなり、技をかけられない状況も増えていく。
軽量級のボクサーが、なかなか重量級のボクサーに勝てないのが、わかりやすい一例かもしれません。
それでも無手での当身であれば、徹底して鍛えて練度を上げておきさえすれば、自重がなくとも効かせることは可能です。
(とはいえ物理的に、体重65~75キロはないと厳しい場面が多くなるでしょう)
投げ技などは、さらに自重が大きく影響するので、85キロ以上なければ重量級や無差別級の相手に効かせるのは難しくなってくる。
体重を増やすことの害というのも、もちろんあります。
飛んだり跳ねたりといった動作での負担が増えるため、移動距離が短くなる。何よりも、動きだしが遅くなる。
このあたりも当流では、力学的に明確にして、目的や個性に応じて細やかに指導をしていきます。
大事なのは「なんのために?」という根元的な問いかけかもしれません。
なぜ“切れ味”を求めるのか。それは本当に必要なことなのか。優先順位としては、どの程度に留めておくべきなのか。
光圓流のPVでは、師範が非常に素速い動作を披露しております。
特に型での動きなどは、他流の指導者の方々から「どのような鍛錬すればあのような実戦的で鋭敏な動きが可能となるのか」というお問い合わせをいただいています。
PVでは、早送りや音声の加工などは一切しておりません。演舞用の小手先の動きではなく、普段通りの『効かせる鍛錬型』や『使える臨闘型』を映像に修めているだけなのです。
当然“切れ味”なども意識してはいません。
むしろ型による制約で、自由な動きをも制限されている状態です。
ただ、効果的な体づくりと身体の用い方をすれば、ある程度の体重があっても素速くて無駄のない動きは可能だというのが、伝わるような構成にはなっています。
「枝葉末端ではなく、中心を意識することこそが、上達への近道」という強いメッセージにもなっているはずです。
PVと同じ速度や間で“効かせる型”を打てば、さらに多くのことが見えてくるかもしれません。
“切れ味”よりも重要なことが多々あるのにも、そうした実践と研究の過程で、自然と思い至るのではないでしょうか。