武医同根 ――体を傷めず育む稽古――
武術の稽古というのは厳しいものです。
しかし、多くの人々は、この厳しさについて誤解しています。
自らの体を傷めつけるのが、はたして武術における厳しい稽古なのでしょうか?
それは高度成長期に流行した『スポーツ根性ドラマ』の悪しき影響でしかありません。
武術の名人と謳われた先人たちは、いずれも壮年以降に頭角を現しています。スポーツの世界では、すでに峠を越えた年齢といえるでしょう。そういった年代の先達が、並外れた実力を示して日本武術史を彩ってきたのはなぜでしょうか?
日本の伝統武術には『老いを克服するための体系』があったからに他なりません。
スポーツや競技の世界では、なるべく若いうちに頂点を目指すことが求められます。
結果として、成長が早くて体格や運動神経に恵まれたものが優遇されていく。しかし、その割合は極めて低く、スポーツの世界では選ばれたエリートともいえるでしょう。
そのようなスポーツエリートたちも、二十代半ばも過ぎれば持久力や回復力や闘争本能やモチベーションの低下に見まわれます。
また、エリートとして選ばれなかった者たちは、どうなるでしょうか?
不真面目な人間は、早いうちに体を動かすという文化から背を向けるようになるかもしれません。
真面目な人間は、若い頃の無理がたたって、後々まで故障だらけのスポーツ生活を送ることになるかもしれません。
つまるところ、スポーツや競技の世界で多くを得るのは、プロになって活躍し続ける一握りのエリートだけということになりそうです。
武術はスポーツではありません。
東洋が育んできた身体文化であり、身体芸術であり、最高の養生法なのです。
文化というのは、生涯を通じて取り組むものです。
芸術というのは、死してなお残るものでなければなりません。
「若いうちだけ強ければいい、一時期でも活躍できればいい」
そういった短絡的な志向は、武術を志す人間にとっては害悪にしかなり得ません。
五年後十年後、さらにいえば二十年後五十年後を見据えて稽古できるかどうか?
そこではじめて、武術の本来の姿や価値が、おぼろげながら見えてきます。
十年後も向上心を維持して、質の高い稽古を続けるためには、心身ともに健康でなければなりません。
目先の勝ち負けにこだわってオーバーワークで体を傷めたり、競い合いや勝負事の果てに燃えつきてしまうようでは、十年後の己の姿は思い描けないでしょう。
武術というのは、己の身体の裡に財産を築くためのものでもあるのです。
長く続ければ続けるほど、心身ともに強健になっていく。それが本来の姿であるべきです。
また、そうであるからこそ、我が国の長い歴史の中で、優秀な先達が高く価値を認め、今日まで連綿と受け継がれてきたに違いありません。
翻るに、現代の武術界の実状はいかがでしょう?
スポーツ競技として真剣に取り組み、頂点を目指す者ほど、多くの故障を抱えてはいないでしょうか?
引退後はまともに動けなくなっている昔日の名選手も多いことでしょう。
スポーツとしては、それでもいいのかもしれません。
だが武術としては、それでは本末転倒なのです。
なぜならば本来、武術と医術は同術であり、活法と殺法は表裏一体だからです。
いかにして人を効率よく仕留めるか?
それが武術の命題だとすれば、人体の仕組みについて知悉することは当然でもありました。骨格や筋肉の付着部位、内臓や神経系の働き。十年も真剣に武術に取り組んでいれば、自ずと思い至ることばかりです。これらに意識が行き渡れば、いかにすれば体を傷めずに育んでいけるかといった視点が備わります。老病苦といった煩いからも開放されることになり、医師に頼る機会もほとんどなくなることでしょう。
皮肉なことに、活法であったはずの医術の現状は、どうなっているでしょうか?
その場しのぎの対処療法を繰り返すばかりで、根治にはいたらない症例も増え続けているのではないでしょうか?
このあたりの現実もまた、武術の本質を非常によく現しているといえるかもしれません。
強くなるためには、なるべく体を傷めずに、長く稽古を続けていくことが不可欠です。己と厳しく向きあい、自らの肉体は言うに及ばず、稽古相手の心身をもいたわる。それが、やがては争いや老病苦すらも遠ざける。
現代医術、特に西洋医術は、まったく正反対の方向に進んでいます。
老病苦を恐れるあまり、投薬や手術に頼り、人間に本来備わっていたはずの自然治癒力までをも奪ってしまう。
もって生まれた能力すら活かせない。これでは術ですらありません。
武術の本質は、その人のもって生まれた能力を、最大限に発揮させることでもあります。
そのために何をすべきなのか?
武道発祥の地、日本に生まれた我々は、今こそ深く考えなおさなければならないのではないでしょうか。