根の力、芯の力

光圓流の稽古では“根の力”と“芯の力”の養成を心がけています。

 

入門時から「立ち方、姿勢、中心軸」の重要さを説き、このあたりを注視しながら基本や移動や型を練っていく。その過程で「動いても崩れにくい体」が徐々に育っていきます。

 

さらに段階が進めば、崩れながら動く、その力を用いて相手を崩す、といった高度な技法が展開できるようになってくのです。

 

ここまでくれば、動くということの本来の意味や、重心の制御や地面や重力との関係というのが、いかに大事なのかにも思い至ります。

 

(相手の力を封じたり、化したり吸いとったりする、といった術理の裏側にも気づくようになるかもしれません)

 

これらの要素を統合させる能力を、当流では“根の力”と“芯の力”と呼んでいます。

 

どの程度の“根の力”と“芯の力”を備えているのかは、見取り稽古を詰みさえすれば、身体的な特徴からも判断できるようになっていきます。

 

歩き方や腰下の充実具合を観れば、おおよその“根の力”がわかります。

根の力をたくわえている人間は、足裏や股関節の感覚が発達しているので、足運びからして違ってきます。着物に草履で歩いたりすれば一目瞭然です。道衣姿でも、腰板の上下のつながりなどから、多くの情報が得られるはずです。

 

根の力が育ってくると、転ぶということができなくなります。凍った路面などで滑っても、瞬時に体勢を立てなおしたり、わずかに上体を伏せるだけで回避できるようになっていきます。どんな足場でも転ばないような足運びも、自ずと身についていくことでしょう。

 

地面との一体感も強くなり、常に浮いているような沈んでいるような、独特の感覚を得られるようになる。

この力が大きくなると、体が受身や寝技を拒否するようになっていきます。組手でも極端に倒されにくくなるため、安定感も別物になる。

 

また“芯の力”の強い人間は、下腹部に張りや充実感があらわれます。背中も大きく厚くなり、反対に体の前面の筋肉はつきにくくなる傾向が出てきます。

意図的に鍛えている場合は、肩が落ちてなで肩になったり、手指が太く頑丈になっていく。こうなると、技のかかりも劇的に違ってくるのです。

芯の力を意識して稽古に取り組むと、初心者でも中量級程度の体格さえあれば、三年と経ずに重量級にも確実に効かせられる技が育つことでしょう。

(軽量級だと地力をつけるのに少々時間がかかるので、ある程度まで自重を増やしてしまった方が近道かもしれません)

 

芯の力が充実してくると、体も疲れにくくなり、性格的にも落ちつきや安定感が増します。

驚いたり戸惑うことも少なくなるので、組手の際なども冷静に対処できるようになる。

怒りにかられるようなことも減るため、やけに飄々としていたり、喜びや哀しみも客観的に処理できるので、ややもすると冷淡に見える場合もあるようです。

 

そのような兆候が出てきたら、武術の指導や人間関係の構築に、あらためて情熱をもって取り組めばいい。

特に指導における試行錯誤は、さまざまな気づきや変化を自他ともにもたらしてくれることでしょう。

叱るために大袈裟に怒ってみたり、反省をうながすために、わざと素っ気なくしてみたり。勘所を押さえたら空かさず誉めるのも、もちろん忘れてはいけません。

 

“根の力”と“芯の力”は、別個のものではなく深く結びついており、組み合わせ方によってさまざまな効果を現します。

武術的な用法としては、相手を“飛ばす”“腰砕け”にしてしまう、というのが好例でしょうか。応用力がつけば無数に用途は広がっていきます。

 

心身ともに強靱さを宿し安定させる“根の力”や、対人関係において絶大な力を発揮する“芯の力”ですが、これらは地道な稽古の積み重ねによってしかもたらされません。

それでいて、数週間もさぼっていると常用できなくなってしまうほどに脆くもある。

だから尚更、貴重な能力だといえるのかもしれません。

 

触れた刹那に崩すためには、触れる前に力を生じさせておかなければならない。

 

使える武術であるためには、常日頃から稽古をおこたらず備えておかなければならない。

 

根を張って芯を通すことで生まれる力。

継続は力なりが、もっとも実感できる領域でもあるでしょうか。