闘える型を打つ
空手の精髄は、型(形)にあるといっても過言ではありません。これほどまでに高度な身体操作を複式でまとめ上げた武術は、世界的に見てもめずらしく、文化的にも比類ないほど貴重です。
空手の型ですが、流派によって多様な特色があるものです。
一般的には、那覇手は力強く接近戦に長じており、首里手は速さと強さを兼ね合わせている、という印象でしょうか。全空連の形なども、得点制の競技の普及に合わせて、独自の変化を遂げてきています。
光圓流では「闘える型」を第一義として取り組むようにしております。流派によっては臨闘型、実戦型と呼ばれている打ち方に近いでしょうか。同時に鍛錬型としての要素も内包しています。
そのような型を打つためには、どこに意識をおけばよいのか。以下に観点をまとめてみましょう。
・仮想敵をとらえているか。
・間に合うか否か。
・中心から動けているか。
・指先や拳頭や足先にまで重さを伝えられているか。
・力を解放したあとに居着いていないか。
初伝の段階から、このあたりを徐々に体に覚え込ませていきます。
(光圓流で学んでいる生徒には他流経験者も多いため、こうした観点をもって稽古することに最初のうちは戸惑う者も少なくないようですが、さまざまな気づきを得て次第に認識を新たにしていきます)
また、型を打ち続ける過程で、明確な変化が現れてきます。
立ち方、正中線、目付、間合いの感覚、重心移動、歩法、体捌き、呼吸、技の当て方や相手の崩し方等々、闘うために必須の要素が、わずかずつですが着実に身についていくのです。
これらの要素が、ばらばらではなく連携して身につけられるところに、型の最大の利点があります。
中伝に入ると、型は「緩急」を抑えて、ひたすら「流す」ようにして行うことになります。
力は変化の中にある。だから流れを滞らせてはならない。よどみない動きの中に、いつでも爆発させられる力を蓄えて臨むように。
だからといって、無闇に力んではなりません。型を守れってさえいれば、すでに安定は得られているのだから、固めるのも技を効かせる瞬間だけでいい。
「切れ」も意識して表には出さず、むしろ「粘る」ことに専念する。粘りは同調と重さを生み、これを解放することで確実に効かせられる技が育っていきます。
発生させた重みを貫通させれば、強烈な当身に。また粘りの段階で精緻な操作を加えれば、吸いつくようなムチミ(餅身)となるのです。
外形を守ることで、内側に効かせていく。
内側が練り上がってくれば、体の造りが変わってきます。深層筋によって骨格を制御する感覚、空気が粘る感覚や拳足によって風を切る感覚、体が芯から熱を発したり呼気が全身を震わす感覚などが、次々と芽ばえてくるでしょう。
型は己と闘うものです。
決して様式美や自己陶酔で終わらせないように。
それまでの自己の能力と、せめぎ合い拮抗しているのだから、泥くさくなるほどに追い込んだ型の方が効果も高い。
小手先や足先だけを小ぎれいに動かすような型では、現実戦ではまったくといっていいほど使いものになりません。それでは“心技体ともに軽すぎる”からです。
見得を切るような大げさな所作や、硬直や溜めや反動に頼った動きも、間に合わない要因となります。
このような型では、積み重ねるほどに隙が大きくなり、悪い癖が身についてしまう。組手や現実の攻防とはかけ離れた「闘えない型」に陥ってしまえば、変化になど対応できようはずもない。
そうならないためにも、空手を修める私たちは、型という貴重な財産と今一度、原点に返って向きあうべきではないでしょうか。
大地と調和し、中心力を増幅させ、生みだした重さと速さを構造力をもって四肢に伝える。これらを瞬時に同調させて行わうための道筋を、空手の型は真摯に向き合えば示してくれることでしょう。
光圓流のPVに収録されている型の中にも、そのあたりの身づかいが垣間見られるはずです。
特に粘りは重要です。この感覚が発達してくると、技の当て方や効かせ方も急速につかめてきます。
当て方=アティファにも繋がりますね。すべては最初から、型の中に明示されている。
「四半世紀、真剣に稽古を続けてきたのなら、あとは型を打つだけでも実力は維持できる」
そのような訓話も当流には伝わっております。
しかしながら「真剣な稽古」の積み重ねがなければ、型という最高の文化も形骸化し、活かしきることは叶わない。そこがまた理論だけではどうにもならず、真似することも盗むことも至難という、武術のよいところでもあります。
(真剣な稽古とは、まず物理的な限界を知ることからはじまります。稿をあらためて、いずれ記しましょう)
型は「打つ」ものです。打って響かせる。
打ち続けることによって、心身に染み込ませていくものです。
何を、いかにして、染み込ませていくのか。
そこに目を向けたとき、型の効用や真価も見えてくるのではないでしょうか。