練体とフィジカル
強い人間と弱い人間の差は、どこから生じるのか。
そのあたりを注視しながら、組手や試合を観ていくと、いくつかの共通点というのに気づくはずです。
たとえば、強い人間は、立ち方が崩れなかったり、姿勢を維持する能力が高い。
反対に弱い人間は、それらの能力が劣っており、崩されやすい。
こういった特徴は、激しい動きの中では顕著に現れますが、日常の何気ない所作からも観てとることが可能です。
立ち方と歩み方には、身体意識の“底の部分”が明確に現れるので、そこに注目してみるのもいいでしょう。
動かない状態からも、どの程度の体づくりを積んできたのかを類推することは難しくありません。
足の指、踵、足首、膝、股、腰、鳩尾、背中、肩、肘、手首、首筋、顎、鼻を中心とした顔、額……。
そういった部位の骨格、筋肉の付き方、あるいは解れ具合から、さまざまな能力を見取ることが可能です。
投げ技に長じている人は、足の指が発達しています。
パンチの強い人は、肩胛骨の周囲が盛り上がっている。
無手の体術を本格的にやっていると、手指が太くなってくる。
フットワークや蹴り技がすぐれている人は、足首が柔軟で締まっている。
内転筋やハムストリングスを見れば、おおよその瞬発力がわかる。
腰の充実具合などは、あらゆる武術に共通する重要な要素でもあります。
臍下丹田や中心軸を意識した稽古を長年積んでいる人は、肩が極端に落ちて、なで肩のようになっていく。
強者を観察していく過程で、どの部位をどの程度まで鍛えれば使いものになるのかも、次第に見えてくるはずです。
真剣を振ってみればわかりますが、据えもの斬りでも熟練するまでは、相応の膂力がいるものです。
剣を構えて自在に動いている相手を斬るとなると、それ以上の身体能力が求められるのはいうまでもありません。
古流の剣術を修めている人間の中には、竹刀を用いる現代の剣道を軽んじている者も見受けられますが、それは実践というものを経ていないがゆえの妄信や、場合によっては劣等感の裏返しであることも少なくはないでしょう。
剣道の試合を観戦するのも、時にはよい勉強になるものです。
全日本クラスともなると、反応力も尋常ではありませんが、体格も立派で身体能力自体もすぐれています。握力や脚力や背筋力なども相当に高いのがうかがえる。軸も強い。競技人口も多いので、その中を勝ち上がってきたアスリートであるというのが、身近に接すればよくわかることでしょう。
全日本上位の剣道家が本気で頭突きなどをしてくれば、体術を学んで鍛え込んでいる人間でも、一撃で危険な状況におかれかねない。そういった感覚も、実践を積んでいる者同士であれば伝わってくるかもしれません。
無手の体術であれば、得物に頼らないでも勝負をつけられるよう、剣道家以上に充分な地力を養っておかなければならないという、至極当然な大前提にも思い至ることでしょう。
立つ力、動く力、崩れない力。それらが揃った上で、ようやく攻撃力というのも安定してくる。
また実際に当てて効かせるとなると、肘から先や膝から下といった攻撃に用いる部位も、ある程度は鍛錬しておいた方が、より効率よく闘えたり稽古にも専念できる。
“体づくり”というのは、流派を問わず共通する武術の最重要課題といってもよいかもしれません。
特に若い時分は回復力も高いので、大いに体を鍛えてもらいたいものです。
成長期に体を使い込んでおけば、しっかりとした土台ができ、その後の稽古でも多少の無茶が効くようになります。
三十代四十代になったとき、若い人に胸を貸せるだけの強さと余裕があるかどうかで、高度な理合を現実戦の場で使えるかも決まってくるようなところもある。
しかしながら壮年以降は、体力的な限界を感じる場面も増えてくることでしょう。
関節の稼動域が狭まり、柔軟性も放っておけば衰えていき、怪我を誘発しやすくなる。
筋肉の弾性もなくなってくるので、中途半端なウェイトトレーニングで作ったような体は、邪魔になってくることも多いでしょう。
そうなってきたら、凝り固まった心身を一度、解きほぐしていくことから取りかかりましょう。
光圓流では、風の手、脚振り、腰割りや股割りなどを積極的に行うことで、加齢による衰えに対処していきます。
身体を解きほぐしていく過程で、さまざまな気づきが得られます。
間に合わないのは何故か。効かないのは、どうしてなのか。効かせられないようにするには、どうすればいいのか。
「鍛える」というと、一般的には“剛”の者を目指すという感覚が強いかもしれません。
空手の型などでも、鍛錬の要素が強いものには、がっちりと固める印象が、どうしてもつきまとう。
しかし、実際に闘っているときに、体を固めたり絞めたりしたまま動くということは、まず有り得ない。
この乖離は、どこから生じているのか。修整するには、どういった稽古を行えばいいのか。
鍛錬という言葉にもあるように、鍛と錬は武術においては元来、表裏一体であるはずです。
身体を錬り、いかにして“柔”を取り入れて、日常的なものにしていくか。
ここに当流ならではの技術の蓄積があります。
しっかりとした剛の蓄えがあれば、柔を取り入れたときに、より大きな実理がもたらされる。
凹凸のあった身体は、練体によってなだらかになっていき、子供の頃のような自然で応用力のある姿へと戻っていく。
ばらばらだった体や、ちぐはぐだった動きが、まとまりはじめると、反応力も高まり、巨大な力を意識せずとも用いられるようになっていく。
体が自然に対応するようになるので、打たれ強さも向上し、いずれは打たせずに打つことにまで繋がっていく。
光圓流の練体には、凡才を天才に近づけるための智慧が集約されています。
練体を続けていくことで、いずれは天才をも上回る能力を宿すことさえも不可能ではない。
そのあたりに、単なるフィジカル・トレーニングとは異なる、武術ならではの奥深いおもしろさも秘められているはずです。