無合い当て(アテイファ、寸勁など)について

光圓流のPVを公開して、二年近くが経過しました。

その間に、数多くのお問い合わせがありました。遠方から体験入門にお越しくださったり、そのまま入門されて定期的に通われる方なども現れました。

層としては、他流派の二段から五段といった経験者が中心だったのですが、まったくの未経験者も数名いらっしゃいます。

 

サイトからのお問い合わせの中でよく見られたのは「無合い当て」についてのご質問でした。そのあたりについて、今回は解説してみようと思います。

 

光圓流では当身を重視しています。当身で崩しざまに転倒させたり、触れた刹那に崩して当身で留めを刺すという技法が根幹になっています。

そうした技術を長年にわたって研鑽していく過程で、まったく距離がない状況からでも、一撃で効かせられる当身を放てるようになっていくのです。

 

どちらかといえば、無合い当ては結果や応用であり、それだけを目的とするものではないのですが、この技法に興味を持つ武術愛好家は非常に多いようです。

 

たしかに、零の距離から強烈に効かせる打撃は、稽古を続けていれば天井知らずで威力が上がっていくうえに、避けることも叶わない。多大な魅力があるのも事実でしょう。

 

プロモーションビデオの中でも、師範が何度か「無合い当て」を披露しています。

目利きの方々が、それに気づいてお問い合わせやご感想を寄せてくださいました。

 

中国武術の指導者の方からは「後足からの強力な発勁や零勁は、空手では貴重なのではないでしょうか」「人を打ったとしたらどれほどの威力なのか空恐ろしいほど」といった評価を頂きました。

 

合気柔術系の高段者の方は、光圓流の突きを「折れない腕を早い展開の中で体現なさっている」と評しておられました。この方は動画内の約束組手で「気当て」や「気留め」を実践しているところまで見抜いておられました。

 

沖縄空手の流派で師範をつとめている方からは「当破(アティファ)を何度も見せておられますが、公開してもよいとの許可を先生から得ておいでなのでしょうか?」とのご質問もございました。

(ここでの『先生』というのは、当流の師範である能見の、さらに師にあたる人物という意味だそうです。流派によっては秘伝に当たる技術まで公開しているので、ご心配してくださったのでしょう)

 

また実際に、沖縄空手などを経験された高段者も何名か体験にお見えになられ、稽古後にさまざまなお話をする機会がございました。

 

「立ち方と突き方がわかったら、当て方もわかってくる」

「力の通り道ができるので、それを育てる」

「ひとつ拍子で当てる」

「当ててからも大事」

 

このような会話が、流派の垣根を超えてなされていました。

 

「当法(アティファ)を身につけている沖縄の空手家は相当数いる」

「だが、それを自由な攻防で使用できる手練は少ない」

「ましてや、教えられる先生となると、ごく少数に限定されるのではないか」

「用法や修行法が失伝しているのか、それとも隠しているのか」

 

そういった興味深い話も交わされたようです。

 

当流にも、零の距離から当身を効かす用法なら、いくつも伝わっておりますが、古武術の宿命でしょうか。近代格闘技のような素早く動き回る攻防の中では、あきらかに『間に合わない』形稽古などが残っているのも否めません。

 

ジャブやローキックで止められる。

フェイントで崩されてしまう。

リーチ差や身長差があると、中に入れずに終わってしまう。

 

師範の能見は、そのことに早くから気づき、ではどうすれば無合い当てを活かせるのかを実践研究してまいりました。それが貴重な伝統文化を途絶えさせずに、後世へ伝えていくための当代の課題だと考えていたからでもあります。

 

無合い当てや、寸勁、当法などが常用できる水準に達すれば、さまざまな伝統的な技法が、それまで思いもしなかった形で活きてくることも発見できました。

 

結果としていえるのは、もっとも大事なのは、身体を造り替えていくということでした。

 

そこで役立ったのが、他でもない空手の基本や型、また当流に伝わる古武術式の練体や行法です。

 

ナイファンチ、セーサン、パッサイ。

そこから抽出した下段払い、上段挙げ受け、外受け、内受け、卍受け、手刀受け、掛け手受け。

これらは『受け』のためだけでなく、体を効率的に用いられるよう、骨格筋や深層筋を造り替えていくために存在していることもわかってきました。

 

古式の四股や擦り足や腕振りなどと組み合わせて稽古することで、その筋道が一層、あざやかに浮かび上がってきたのです。

 

地道な独り稽古を通じて、より自在に動くように身体を根本から造り替えていく。

遠間でなければ効かせられなかった打撃も、至近距離からでも通用するように深化させていく。

体のつくりが大きく変化すれば、それが組手などの対人練習でも如実に現れてくる。

相手の体の練り具合や構造も、まるで手にとるように、透かし見えるようになってくる。

技術練習だけでは気がつかなかった足りない部分も見えはじめ、どこをどのような稽古で補強していけばいいのかも、体が知っているのだから明確に判断できるようになる。

それらを幾度となく繰り返すうちに、不動の精神が身につき、さらなる実践と常用化が進んでいく。

 

本当に大切なことは、日常の繰り返しの中にあったのです。

 

「いかに基本が大事なのか」

当流に体験に訪れた皆さんも、一様に実感されていくようです。

 

師範が「その場基本」をはじめると、空突きひとつを見ただけで、初参加の者は顔色が変わるのが恒例になっています。全身を総動員させて突いているのだから、それも当然かもしれません。

いわば、すべての基本技が爆発の連鎖であり、アティファになっている。

 

だからでしょうか。光圓流の基本は、とにかく疲れるという評判もございます。

逆説するなら、武術経験者の多くが、基本をないがしろとまではいいませんが、そこまで本気で掘りさげてはいないのかもしれません。日々繰り返し何度も何度も行う基本だというのに、準備運動のように流してしまっているのだとしたら、もったいないことです。

 

その重要な『基本』についても、いずれまた解説してみたいと思います。

 

 ―追伸―

100kg超で動ける若手が育ってきているので、近日中に新しいプロモーションビデオを公開する運びになりそうです。

ご期待ください。