民間伝承とフィールドワーク

「作州に入って棒を振るな」という言い伝えが、江戸末期まで山陽のあたりには残っていたようです。

作州は現在の岡山県の北部で、宮本武蔵の生誕地でもあります。その地では、民間人(農家)も護身術として棒を嗜んでおり、なかには相当な使い手もいたようです。

 

昔日の農業は重労働でしたから、お百姓には体力もあったことでしょう。鍬や鎌を頻繁に使うので、刃物の扱いにも馴れています。斧や鉈で作業していれば、刃筋の通し方や手の内の締めなども身についていたことでしょう。

「武農」という言葉が残っているように、当時の農家の中には盗難から田畑を守るため、武装していた者も少なくはなかったのでしょう。

 

彼らが自警のために選んだのが『棒術』でした。

刀狩りによって、刀剣の類は所持できず、田畑は広いために、短い得物では威嚇することもままならない。必然的に、もっとも実用的な武器である『棒』を選ぶことになったのです。

 

上記のように、武術の成立過程、特に武器術には、なるべくしてなったというような必然性が備わっているものです。

 

フィールドワークを兼ねて、実際に各地を訪れて民間武術と呼ばれるものを研究してみると、さまざまな背景が見えてきます。

 

特に興味深いのが山間部で、近年まで鎌や鉈の名人が相当数存在しておりました。

藪払いの様子などを見ていると、非常に高度な歩法と身遣いをしているのがうかがえる。

刺突性の高い山刀で「突きの型」を行っている方などもおられました。熊や猪に襲われたときのための護身術ということでしたが、武器術としても実用性が高いのが見受けられました。

 

銃器がなかった時代には、槍で熊や猪と闘っていたという言い伝えも残っています。

相手は野生の大型獣ですから、鍛造の丈夫な槍で突いても、分厚い皮や硬い骨に弾かれてしまい、突いた方が吹っ飛んでしまうこともめずらしくはない。

だから槍を地面に斜めに突き立てるようにして、大型獣の自重と突進力を利用し、痛手を負わせていたといいます。

接近戦となった際や、とどめに用いるのが、切っ先の鋭い両刃の剣でした。狙うのは頸動脈か心臓。しかし、頸動脈は細く、肋も密なので、正確に貫かねばならず、そのために相当な修練を積んでいたようです。

対人ではありませんが、こうした技法も非常に高度な『武術』の実践といえるのではないでしょうか。

 

このように、我が国には「生活に根づいた民間伝承的な武術」が、いくつも存在していました。

しかし、その多くが近代化に合わせて、自然消滅していったのでしょう。

民間人であるがゆえに、常に生活に追われており、より便利なものへ、無駄のないものへといった生活様式を選ばざるを得ず、それが貴重な伝承をも失わせていったのかもしれません。

 

剣術の諸流派でも、昔は木剣を手作りさせていたといいます。だから流派ごとに、さまざまな形状の木剣が伝わっているわけです。

 

道具立ての違いは、それぞれの技法や流儀の違いでもある。

このあたりを知ることで、自流や他流への理解や造詣も、さらなる深まりを見せていくことでしょう。

眼力さえ養っておけば、武器の形状を見ただけで、何ができて何ができないのかも、一目瞭然となってくるはずです。

 

光圓流にも、独自の得物が伝わっております。

 

・七尺近い大棒

・両刃の剣

・棒手裏剣

・双手短剣

・暗器

 

などがそれに当たります。

 

これらは、それぞれが特殊な形状をしており、技術の形成や伝導の過程も異なっております。

また、独自性があるからこそ、伝承していく価値も大きいはずです。

 

実器は古いものばかりで、ごく少数しか残っていないため、稽古では主として模造品を使うことになります。

 

棒などは新品でも大差ないのですが、やはり国産の堅い樫を用いていますので、中級者以上にならなければ組み稽古はさせられません。

 

ましてや刃物となると、対人稽古の前に、模造刀を用いた独り稽古を相当量こなしておく必要があります。

 

当流でも最初は、木剣による稽古から入ります。

いずれも独自の形状のため、すべての木剣を自分たちで作成していくことになります。

また、そうした取り組みを通じて、刃物の扱いなども徐々に覚えていくのです。

 

以下に、その一部を公開いたします。

 


生徒が作成中の『ウメガイ木剣』 

横にあるのは安来綱の剣鉈


短刀(国産の樫を使用) 

上は作成に用いた『梅心子國光の花小刀』


ウメガイ木剣 グラインダーで仕上げたもの

七尺近い大棒


ウメガイ木剣による型