健身と養生
能見師範は、もう二十年以上も、病院の世話になっておりません。
日々の武術の稽古が、健やかな心身を保つことにつながり、そこから得られる無数の智慧が、病因や怪我を防いでくれているからだといいます。
基本、移動、ミットや巻藁などへの打ち込み、行法、型など。
光圓流で行う稽古には、いずれも血行や発汗を促進し、立ち方や姿勢を矯正し、筋骨をたくましく鍛え上げていくといった効果が備わっています。
また約束組手や自由組手では、緊張感や恐怖と向き合うことで、アドレナリンやエンドルフィンといった脳内物質や副腎髄質ホルモンが、適度に分泌されるようになっていきます。
組手を経ることによって、危険を察知する能力や、危機にや困難に立ち向かう心構えも芽生えます。
日常生活でも咄嗟の事故を回避できるようになったり、学業や仕事の場面でも必要に応じて、やる気や集中力を効率よく高めることまでが、いずれは可能となっていくことでしょう。
練体や古流の受身、股割りや腰割りを行えば、躯の凝りや歪みが解きほぐされ、リンパや内臓をマッサージするような効果も得られるので、体内の排毒が促され、ますます病因は遠ざかる。
稽古後は食事もおいしく戴け、消化吸収もよくなり、成長ホルモンが分泌されるので、いつまでも若さを保てるようになる。
武術ほど人間を壮健にしてくれる文化は、他にないといっても過言ではありません。
格闘競技やスポーツでも、身体を鍛え上げることは可能ですが、武術のように高齢になっても続けていけるという実例は、まだまだ稀だといえるでしょう。
古くから受け継がれてきた日本の武術には、末永く続けていくための養生の要素が備わっているものです。
それは子々孫々まで伝承していく課程で、老いを克服するための経験則が、長年かけて体系的に組み込まれていった結果でもあるのでしょう。
若いうちは激しい鍛錬を行い、加齢とともに稽古の内容を調節していく。
そういった技術的な蓄積があるからこそ、何歳になっても動くことができ、また何歳からでも新たに取り組むことさえも可能となるのです。
壮年以降は、稽古の質というものを考え、意識的に向かい合っていく必要も出てきます。
三十代からは、柔軟性や回復力が衰えてくるので、一ヶ所に負担をかけるような稽古の重複を避ける。
四十代以降は、身体を解す練体を増やし、神経系の調律などを覚え、組手の際の安全管理も徹底していく。
食養や休息の取り方についても、年代ごとの創意工夫を巡らしていく。
そのようにして、年齢を重ねても使える技術と身体を練り上げていくのが、高度な武術の稽古体系といえるでしょう。
歳とともに衰える能力の最たるものに、たとえば「跳躍力」というのがあります。
何度も何度も飛び跳ねているうちに、身体のバネが消耗してしまう。具体的には、腱が硬化したり、関節がすり減ってしまい、心理的な抑制も加わることになって、ある時期から急速に跳べなくなっていく。
多くのスポーツ競技者のように、飛び跳ねたり足を踏みならしたりといった動作を繰り返していると、足首や膝や腰にも疲労や障害が蓄積していきます。
さらには跳ぶことで崩れが生じ、予測不能の事態に対処しきれなくなり、怪我を呼び起こすことにもなりかねない。
アキレス腱を傷めたり、膝痛や腰痛に悩まされている元選手も、かなりの数で存在しているという現実があります。
光圓流では「ただ試合に勝てばいい」といった指導はしておりません。
「理に適った技で、勝つべくして勝つ」というのを、常に第一義にして取り組んでいます。
その効用のひとつが、他流派やスポーツ競技に比べて、怪我をする割合が格段に低いということが挙げられます。
まずは姿勢や立ち方を糺し、無駄な動きや悪癖が着かないよう、考え抜かれた究極ともいえる基本稽古や移動稽古をやりこんでいく。
その課程で、身遣いと躯そのものが変化していく。
溜めず、飛ばず、捻らず、より早く安定して動けるようになり、腹腰は充実し、神経叢には気血が満ち、身体の隅々にまで壮健さが行き渡っていく。
結果として、理に適った技術が身につき、怪我や衰えまでもが防げるようになる。
最高度の武術というのは、健身法であると同時に、養生法にもなっているというのが、当流では稽古を続けるほどに実感できるようになっていくはずです。
健やかな身体というのは、心地よい身体でもあります。
すっと軸が通り、歩けば技が放てる。
動いているときは勿論、座しているだけでも呼吸は深くなり、動じない胆力が備わる。
就寝しているときは眠りが深くなり、目覚めれば疲れが抜けている。
いかなるときも能動的であり続けられ、いつまでも若さと強さを保てる。
そういった身心を我がものとするためにも、我が国が誇る高度な武術を大いに活用していってもらいたいものです。
光圓流の指導理念は「武医同術」
医術は仁術であり、予防医学や民間療法を広めることにも繋がっていく。
病気や怪我を寄せ付けない、武術的な身心を広めていくことは、まさしく当流が目指しているひとつの境地でもあるのです。